あさま銀嶺3号ぶろぐ

ヤフブロより移籍です

1982.5.16 春の天竜峡を行く・・ ( 飯田線80系の旅 )-6


湘南電車、最後の旅路・・・644M
(続き)





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三河大野では流電なきあとの一番人気、「半流」
クモハ53007を2両目に組み込んだ1223Mと交換。客がどっと増える。



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「流電」クモハ52と共通のサイドビューの53007



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このカオが先頭に出ると一段と沿線はファンで賑わう



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クハユニをラストに1223Mが去っていく。
続く本長篠でも大勢乗車した。




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車窓が次第に平らに・・





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何人か降りた茶臼山





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新城で時刻表にない列車と交換。




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三河一宮では1225Mと交換。



 
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豊川を出ると複線に




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新幹線、東海道線と併走し、名鉄との共用区間パノラマカーと一瞬の出会い




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ついに豊橋着。クハ85が迎える。




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豊橋からは0系大窓の「こだま」で帰還。イスのあるビュッフェ(35型)で牛丼をたべた。


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こだま252号東京行  K45編成

富士山は曇っていて見えず。 途中子供が線路に入って遊んでいたとのことで、15分程遅れて新横浜着。


( 自己解説 )
電車の博物館と言われた当時の飯田線。80系目当てで乗ったが、沿線にはスカ色の戦前型を狙う撮り鉄諸兄が多数出没。
・・改めてみてみると対向列車、更に貨物列車が多かったのに驚かされます。

のちに119系の投入が始まるとそれら戦前型より一足早く80系は淘汰されてしまった。今であれば「鉄道博物館」入り確実なクハ86がすべて解体されてしまったのは残念至極!
JR東海サン、鉄道の旅をじっくり味わえる路線として飯田線を売り出しては・・。

(当時乗車メモ・ほぼ原文シリーズ)