あさま銀嶺3号ぶろぐ

ヤフブロより移籍です

写真が(ネガが)一部でてきました!中学2年の作文 (1978.3編集モノ)

このときの写真が(ネガが)一部でてきました!
・・・ので、記事を再編集してみました♪





それでも、出てきたのはスナップ少々と僅かの鉄写真。
もっとまじめに鉄していればよかった。。。。(-_-;)







・・・・・・・・・・・・・・




長野電鉄屋代線の廃止がほぼ確定したようです。
(いろいろモメているようですが)
 
長野電鉄屋代線活性化協議会」が、「廃止」の結論を出すというのはどう考えても解せない話ですが、
そういうことになってしまっているみたいで・・
 
 
 
最近、中学2年の時の文集が出てきました。
ソコに私が書いていたのは、1977年12月、屋代線に乗って地獄谷の猿見学に行ったときのことでした。
 
記憶を頼りに記事書いたこともありましたが、「原文」がでてきました。
 
 
 
ということでその原文のまま載せてみます。
(文中に「写真をバシャバシャ撮った」という件がありますが、当該写真は行方不明のままです。。。)
 
 
そのときのBGMはやはり・・
 
 
 
 
    地獄谷     哲

ある冬の日の朝、ぼくとB組のKSN君は高崎駅に向かっていた。

倉賀野の街を出たころ時計に目をやると6時45分をさしていた。

これは7時のドン行に間に合わないと思い、自転車を飛ばしたが

やはり間に合わなかった。そのため一時間後の急行「妙高1号」で

屋代へ行く事になった。屋代へ着くと、向こうのホームに小さな

電車が一両とまっていた。長野電鉄の車両である。
僕たちはこの電車に乗り須坂に向かう。

途中、松代の駅で古い電車を燃やしているところが見えた。

ともかく須坂に着くと、列車を乗り換えて湯田中まで

行かなければならない。
時刻表を見ると次の湯田中行が特急である。駅員に

「特急料金はいくらか?」と聞くと、国鉄が1200円に対して

なんと80円だという。となると乗る事は決まっていて、

電車を待つ時間バシャバシャ写真を撮っていた。


イメージ 1
ED5001

イメージ 2
KSN氏

イメージ 3
私    背景にピカピカの2500系と、退役間近の木造車・・・




特急がホームに入ってくると、スキー客が沢山乗っている。

車内を見回すと、長野電鉄さんには悪いが、特急だというのに

国鉄のドン行並の車内である。80円でも仕方ないと思いつつ

突っ立ったまま湯田中へ。
 
湯田中に着くと、目的地の地獄谷入口の渋温泉までバスで向かう。

バスは川沿いを走り、橋を渡り坂を登る。

・・悲劇はそのあたりから始まっていた。僕たちはバスの後ろの

席に座っていたので、「渋温泉」というバス停が見えず、そのまま

バスは志賀高原有料道路へ入ってしまった。  ・・「これはエライ

事になった」と思いながら必死に“お降りの方はこのボタンを・・”

のボタンを押したが、有料道路内のためバス停がなく、そのまま

バスは志賀高原を登っていった。

やっとの思いで「サンバレー」というスキー場でバスを降りると

皮肉にも僕たちと同じヒマな連中が楽しそうにスキーをやっている。
“クソーォ!”と思いながら道の反対側で折返しのバスを待っていた。

やがてバスが来ると、このバスもスキー客がいっぱいだった。

しかし、そのせいもあってバスの前の方にたっていたため、今度は

バス停を見逃すことなく降りられた。

バス停から100mくらい下ったところを右に曲がって橋を渡ると渋の

温泉街に入る。しばらく行くと「左・地獄谷」とあるので左に曲がり、

山道を登り始めた。



イメージ 4
途中の立札を見ると、「地獄谷まで1.6k・1時間」

とあった。しばらく登っていって道が山影に入ると雪が2mほど

積もっている。足が40cmほど埋まった。この雪の登り坂を1.5kmも

進む事になった。

・・・このときはまるで映画「八甲田山」のようだった。

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7




 
地獄谷に入ったころ、後ろで「パチンッ!」と音がして何かが

飛んできた。後ろを見ると、パチンコを持ったオッチャン風の

アンチャン(Kとしておく・・)が出現し、二人を狙ってきた。

パチンコ玉が当たらないとそのKは、「・・ハハハハ、可哀想だから

わざと外してやったのじゃ。。」と言ってごまかしていた。

そして今度は「俺がここに何をしに来たか分かる?」と言い始めた

ので、「さあ・・」と言うとそのKは、「俺はここのサルをこの

パチンコで生捕りにするためにやってきた。」という。するとまた

「おまえら、どこから来た?」と聞くので、「高崎」と答えると、

「高崎?・・どこだそれは?日本か??」と言っていたので

僕たちは「あの有名な高崎も知らないの?」といったら「知らん」

と答え、しばらくするとまた「ところでお前ら、家出少年と違うか?」

などと、僕とKSN君にかわりばんこに話しているのだ。

そうこうしているうちに旅館のようなところに着いた。しばらく休み、

水を一杯飲んでサルを見に出かけた。

しかし、サルは期待していたほどの数はいなく、十匹ほど

見ただけだった。
 
時計を見ると3時半だった。そろそろ帰ろうと思い、

山道を歩き出した。帰りの道は「八甲田山」のようではなかったので

楽だった。・・また2kmほど歩いて渋温泉に出た。

バスで湯田中まで帰りたかったが、お金が足りなくなりそうなので

歩くことにした。しばらく歩いて先程のKと別れ、1kmほどある道を

湯田中駅まで歩いた。駅に着いたときは足が棒のようだった。
 
駅で高崎まで1650円の切符を買い電車に乗り込んだ。長野に着いた

ころにはあたりはもう暗く、時計は5時半を指していた。

高崎行のドン行が出るまでに急行が一本あったが、

さっき言ったとおりお金がなく乗る事が出来ずに7時ころのドン行に

した。電車が長野を出て二時間くらいして信濃追分のあたりでは雪が

降っていた。車内を見ると、ヒマな人が電車の音を録音していた。

最後のお金を使って軽井沢の駅でジュースを買った。

ここの駅ではさっきの雪ももっとたくさん降っていた。しかし

碓氷峠を下って横川に着いたころには雪は全く降っていなかった。

横川を出て40分、電車が高崎に着いたとき時計を見ると10時20分を

指していた。
 
 
 
この、「帰りの電車」が、信越線で乗った最後の80系だったと。。
 
長電は、まだ「赤ガエル」投入前で、屋代線の単行は木造旧型車、須坂から中野へ乗り継いだのは
1000系あたりだった気がする。。
169系「志賀」に乗るチャンスでもあったが・・・・